2008年3月14日 (金)

南アフリカプロジェクト

昨年末に取材を行なった番組がいよいよ放送されます。

是非、御覧ください。

3月16日午後10:10~11:00 NHK衛星第一(BS-1)
BSドキュメンタリー
心の叫びを歌に ~南アフリカ 若者たちの挑戦~
http://www.nhk.or.jp/bs/bsdoc/

南アロケ報告③

南ア滞在中には、葬儀を取材する事ができた。亡くなられたのは20代後半の女性。多くの弔問客が亡くなられた女性の家に集まってくる。同年代の若い弔問客も目立つ。牧師の言葉に続き、会場全体にゴスペルが響く。その歌声は青く晴れ渡った空へ。
 家でのセレモニーが終わり亡骸と家族、弔問客が墓地へ向かう。長い車列が進む。車列はハザードランプをつけながら、ゆっくりと信号などで止まることなく進んでいく。他の車はその車列が通過するのをただ待っているのだ。
 墓地に着くとすでに多くの人々の埋葬が行なわれていた。埋葬の儀式にも歌は欠かせない。ドラムの音も鳴り響いている。彼女の埋葬される墓地はギネスブックにも載る、世界最大の面積を持つ。しかし、すでに埋める場所が無い事を現地のドライバーから聞いた。棺を入れる穴は深さ3m程度で、60cmの間隔でいくつも掘られている。彼女の友人を埋葬するときには横並びで6件の儀式が同時に行なわれていた。墓地全体を見渡すと参列の塊があちこちにある。その殆どの死因はエイズだという。毎週末にはたくさんの葬儀が行なわれているのだという。たった半日の間に、これだけの人々が埋葬されているという現実。
自然災害や、戦争の犠牲者ではない。HIV/AIDSによる死。


ソエトに向かう途中、右手にゴミを収集して出来た山がある。その上をゴミ収集車がゴミを吐き出しながらゆっくりと進む。吐き出されたゴミを追うように多くの人がむらがる様子が車の窓から見えた。
 道端に車を止め撮影を開始する。やがて、その山に向かう道を見つけ撮影をしながら徐々に近ずく。山の高さは、40~50m。その山のすぐ下、稜線に群がる人々の容姿が肉眼でわかるポジションに来て初めてワイドレンズでで青空と人影を捕らえる。一人の男が大きな声で叫び、向こうへ行けと身振りをしている。カメラでその男を捕らえる。次の瞬間。空に、黒い点が見えた。石だ。しかし、距離がある。届くまいと思いカメラをまわし続ける。
やがて、そこらにいた人々も我々のカメラに気づき次々と石を投げ始めた。中には、斜面を降りてくる者もいる。カメラに向かって投げられた石は精度を上げ我々の頭をとおりこしていった。やばい。すでに斜面を降りてくる男達も10人ぐらいに膨らんでいる。
逃げた。走って逃げた。
取材開始から2週間。世界でもっとも危険といわれる都市ヨハネスブルグの郊外。ソエト。最初の頃に持っていた危機感が薄れていたのか?スクウォーターキャンプと呼ばれる貧民街での取材でも多くの人々が我々の取材を理解し、饒舌に語ってくれていたために危機感が薄れていたのか・・・

 

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2008年1月29日 (火)

南アロケ報告②

前回の取材報告では、最初から問題点と答えが見えていたかのように書いていたが、実際はかなり悩んだ。

今回取材してきたゴスペルグープのメンバー。彼らには仕事が無い。
お金が無いと云いながら親や家族に面倒を見てもらいながら「ゴスペル」という歌を歌っている。20代の彼らが仕事をせずに歌を歌っている事自体に共感を持てなかった。そして、テレビカメラの前だからなのか彼らは、よい服を着ていたし、よい靴を履いているように見えた。そんな彼らが「愛」を謳い、自由を叫び、政府を批判し人生を語る。

私には彼らの言葉が薄っぺらな物にしか聞こえなかった。

ソエトには新しいショッピングモールが幾つか有り、病院も立替工事の最中。ソエトのすぐ側には、2010年に南アで行なわれるワールドカップのメインスタジアムも建設中であった。この街は、経済的に困窮しているようには思えなかった。確かに、裸足で歩く子供たちも多くいた。信号で停まると物売りが車に近づいてくる場所も会った。

南アに入り最初にヨハネスブルグのダウンタウンにて、ストリートチルドレンを取材した。
日曜の朝ということで街は、閑散としていたが、市場の近くでは、開店の準備のために大勢の人々がいて、そこだけが活気を持っていた。ファストフードショップの角を曲がると汚れた布が建物の壁の下に並んでいた。その横には火を焚いて暖をとっている若者の姿がある。ストリートチルドレン。そのぼろ布を身にまとい、彼らは眠っていた。彼らを取材しようとカメラを構えると、カメラの前に集まってきたのは若い女性の3人組みだった。
一人は目の下に隈を持った小太りの女25歳。ドレッドヘアーを伸ばしたまだあどけない顔の19歳。
左目から頬にかけてまだ抜糸もしていない傷を持つ21歳の女。
彼女達はカメラに訴えかけてきた。「私達は中国人のために仕事をしたい。そして、いっぱい稼いでみせる」と。我々のことを中国人だと勘違いをし、我々に売春のオーナーになって欲しいといわんばかりだ。彼女達売春婦は現在ナイジェリア人に管理され、安い賃金で売春を強要されているアパートに無料で住まわせてもらう代わりに、売春で得た金の数十パーセントを彼らに払わなければならなかった。彼女達にいくつかのインタビューをした。確かに彼女達は危険に身をさらし過酷な生活を送っている。しかし、その原因を、政府や、世の中のせいにしたときに私の心はなえてくる。
どこの国でも、不良と呼ばれる若者達は、自分達の悪事を棚に上げて大人が悪いというのは常だからだ。もっと、深いインタビューをしなければ、単なる甘えにしか聞こえてこないのである。

私は、批判的に彼らを見ていたのである。

取材とはそういうものだ。自分達が納得できるまで取材対象者に向かい合いインタビューを重ねる。
こちらが用意する言葉をぶつけ、相手の言葉を待つ。禅問答のような時間を繰り返し、互いの距離を縮めていく作業。

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2008年1月 9日 (水)

南アロケ報告①

昨年末に行なった南アフリカでの取材の報告をしたいと考えていたが文章にする事はやはり難しい作業だと改めて実感。乱文・乱筆ではありますがお付き合いください。

今回、取材を行なった町の名はSowet(ソエト)ヨハネスブルグから西南西に約30kmの距離にある。アパルトヘイト時代には、黒人の居留区であった場所だ。アパルトヘイト末期の1976年6月16日に起こったソエト蜂起。それ以降、黒人達の自由を求める運動が激しさを増していく。前南アの首相であったマンデラ氏もこの町の出身だ。やがて、1994年にアパルトヘイトが撤廃され、当時、奴隷としての扱いであった黒人達は自分達の手で自由を勝ち取ったのだ。それから13年。彼らは本当に自由を手に入れることが出来たのだろうか?

現在もなお、この街は貧困に喘いでいる。失業者は街に溢れ、AIDSなどの病気の蔓延、そして新たな差別。未来に対して無気力な大人たち。その元で犠牲になった子供たち。両親との死別、離婚などにより、親元で暮らせなくなった子供たちは街に溢れ、生きるために、ゴミをあさり、性を売り、大人から物品を奪う。戦いによって勝ち得る事ができた『自由』とは何であったのだろうか。

アフリカンカルチャーという言葉がある。
「隣人を愛する事・互いを尊敬しあう事・平和である事・分かち合う事・一つの大きな家族である事」部族によって多少の違いがあるであろうが彼らが守ってきた道徳観である。しかし今、それを子供たちに教える大人がいない。さらに自由を履き違えた子供たちは、自分の権利を振りかざし、人のいう事には耳を貸さない。素晴らしい文化を持ちながら、退廃していく現状を目の当たりにする。

そんな中、若者達が集まってゴスペルを歌うグループを取材してきた。彼らの音楽とは、ズールー語という原住部族の言葉を使ったメッセージ性の強い歌詞を伝統的な音使いで歌い上げるものだった。歌詞の内容もグループのメンバー自らの体験や思いから発生したものであり、まさしく彼らの叫び声だった。

私にとって、今回の取材にはもう一つ大きな意味がある。
それは、このプロジェクトが、仲間と立ち上げたものだという事。2005年の暮れに酒を呑みながら話をし、翌年3~4月には国内でのリサーチ作業をおこなった。元来自主制作ドキュメンタリー映画製作を目指していたがスポンサーを見つける事が出来ず頓挫。友人のTカメラマンはそんな中、一昨年9月にここ、南アフリカで自費取材を敢行し、再度、構想を練り、今回の番組契約まで漕ぎ着けたのだ。私は後半、あまり手助けも出来ずに彼に甘えてばかりであった。そんな私をもう一度仲間に引き入れてくれた彼に対して、最大限の力になりたいと考えていた。今回ばかりは、一カメラマンとしての参加だけではなく、制作スタッフとしてより深く関わりたかったのである。

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2007年12月 1日 (土)

クランクイン間近

2年越しのプロジェクタが始まる。
一昨年の暮れに友人と夢を語った。カメラマンである我々技術屋の作品における地位を向上させるためにはやはり、自分たちの力で作品を作り出さなければならないことを。

そして、今、その一歩を目前にしている。

闘いであり、挑戦である。

そして、新しい流れを創り出すのだ。

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2006年7月 4日 (火)

未だ、走れず。

すっかり更新が遅れ、一ヶ月もたってしまった。
ライフワークとライスワーク。どちらも大切ですね。

昨日は、ある、NGO団体に制作協力のお願いに出かけてきました。一ヶ月ぶりにお会いした担当者は快く協力を約束してくれた。
「自主制作のドキュメンタリーを作る。」
撮影の仕事には自信があるものの、制作の仕事、特に最初の立ち上げの部分で戸惑いが多いのが現状。あと、一ヶ月。出来る限りのことをやらなければならない。

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2006年4月28日 (金)

居酒屋学校

昨夜は、自主制作ドキュメンタリー映画を撮られている某監督を紹介いただき、酒を呑む。
 とても熱い人だ。現在も2本の作品を手がけている。一本は、国内、もう一つは、海外での話。
制作には、金がかかるのだが、メジャーでやると今までの想いが消えてしまう。あえて、マイナーでやることに意味があるのだが、多くの人に見てもらうには、もっと多くの努力が必要になる。自主制作、大変だよ。」と笑顔で話してくれた。

 某監督の発する熱に打たれ、こちらも全開で熱く語っちまった。
二時間ほど、酒を呑む前に語りあい、
 酒呑みながら、4時間語り合った。
話題は、多岐にわたった。科学的な脳の話、言語、思念、感情、子供、生命 不老不死、死ぬということ、などなど。
いい大人が、大声でかわるがわるに自分の意見を語り合う姿は、サラリーマンで一杯の居酒屋では、異空間だったかもしれない。

まだまだ、話がしたい欲求を抑え家路に着いた。

改めて思う。
生きるということは、DNAを残すことだと。どんな生き物であっても綿々と繋がって来た生物の歴史がある。文化、であったり歌であったり、情報というもの自体も生物に例えるならば、その内容は、DNA と言っても過言ではない。次の世代に残したいもの、それ自体に残る意識のあるものは、伝わっていくのだと信じたい。

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2006年4月20日 (木)

創めました。

最初に「思い」があった。

「願い」に近い思いだったかも知れない。

それを形にする。人生の遊び。

願わなければ叶わない。

友人たちと額をあわせ悪だくみの相談。
昨年の暮れ、友人のカメラマンTからの提案があった。
「自主制作のドキュメンタリーをやりたいんだ」
私もやってみたかったジャンル。今現在のメンバーは3人。
 昨日は、作品のテーマ、誰に見せるのか、制作費の概算、などの具体的な話し合いが出来た。明日からは、都内で数箇所リサーチに赴く。来週中には具体的な企画書と構成台本を完成させよう。

 オッちゃんとして、今までやってきたこと、考えてきたことを残せる良いチャンスなのだ。そして、自主制作という祭りを成功させる。金儲けではなく、純粋に伝えるための仕事を味わうのだ。

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